張ダビデ牧師 – 弟子としての召し


1. 「深みに漕ぎ出して網を降ろす」という召しと弟子の使命

イエス様がガリラヤ湖、すなわちゲネサレト湖の岸辺に立っておられる場面(ルカ5:1-11)は、すでに複数の福音書を通してよく知られている出来事ですが、マタイの福音書4章と比較してみると、ルカ5章はさらに詳しく生々しい描写が含まれています。特に「深みに漕ぎ出して網を降ろして魚を捕りなさい(ルカ5:4)」という命令と、「恐れることはない。今からのち、あなたは人間をとるようになる(ルカ5:10)」という宣言は、弟子として召された者たちの具体的な使命を直接的に示しています。ガリラヤの漁師であったペテロやアンデレ、そしてヤコブとヨハネのようなごく普通の人々が、どのように「人間をとる漁師」になるのかという転換点が劇的に表されている場面なのです。

張ダビデ牧師はこの本文について、イエス様が「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」とおっしゃった言葉を「天命(天からの使命)」であり、「グレート・コミッション(Great Commission)」を成し遂げるための実践的行動指針と解釈しています。魚を獲る漁師が人間をとる漁師になるという変化(転移)は、人間の努力や知識では到底想像できないほどのとてつもない次元の飛躍を意味します。だからこそペテロはこの場面で「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です(ルカ5:8)」と恐れを抱き、イエス様は「恐れることはない。今からのち、あなたは人間をとるようになる(ルカ5:10)」と語られます。弟子として召された者が経験する恐れとときめき、そして過去とは全く違う道を進むことになるというイエス様の予告が同時に示されているのが、ルカ5:1-11の出来事なのです。

私たちはここで、「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」という言葉について改めて黙想しなければなりません。これは単に魚を捕る・捕れないの問題を超えています。ある人にとっては、人生の真っ只中で自分が与えられた召しを真剣に確認しなければならない決定的な呼びかけになるかもしれません。ゲネサレト湖畔で起こったこの出来事は、私たちの人生にも繰り返し問いかけてくる本質的な質問を投げかけています。果たして私たちはどんな目的のために生きており、何のために召されているのか。イエス様は漁師であった弟子たちに「深みに漕ぎ出せ」と言われました。浅瀬で少し魚を獲っては失敗し、疲れ果てて網を洗っていた彼らに対して、常識では考えられないような方法で、もう一度湖に漕ぎ出して網を降ろしてみなさいと命じられます。ペテロが正直に「夜通し働きましたが何も捕れませんでした」と告白している現実など一瞬で覆すように、主のひと言が状況をひっくり返す鍵となるのです。

張ダビデ牧師は、これこそが信仰の中で起こる逆説的真理だと強調します。現実的には「もうやってみた、だめだった、試したけど空振りだった」という状況があるかもしれません。伝道と宣教の現場でも同様の場面によく直面します。どれだけ尽力しても結果が見えず、実を結ばないように思える瞬間が訪れます。ところが主の言葉、すなわち「深みに漕ぎ出せ」という命令にもう一度従うとき、網が破れるほど魚が獲れる奇跡を体験するのです。この歴史的かつ象徴的な出来事が、弟子たちが「人間をとる漁師」として歩み始めるきっかけになりました。

実際、ペテロが答えた「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何もとれませんでした。しかし、お言葉どおり網を降ろしてみましょう(ルカ5:5)」という言葉の中には大切な原理が含まれています。あらゆる人間的経験や知識、さらに疲れ切った身体と心が「もう意味がない」と結論づけていても、神の言葉への信頼によって、彼はもう一度従うことができたのです。そしてその言葉に従い網を降ろした結果、非常に多くの魚が捕れて網が破れそうになりました。他の船を呼んで助けてもらうほどで、船が沈むほど魚を捕れたというのは、主の言葉に従って動くときに与えられる豊かさを象徴的に示すものです。伝道の働きもまた同じようなパターンを持っています。人を救い、魂を導く仕事は人間の能力や知恵ではなく、全的にみ言葉への従順と聖霊の働きによって行われるのです。

ペテロがその光景を見て「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」と告白したとき、それは単に「罪悪感」を覚えたからだけではなく、「これほどの力を示される方の前で、私は何もできないのだ。私の人生はなんてみすぼらしく取るに足らないものなのだろう」という切実な悟りから来るものでした。全能なる主の前で、自分を頼みにする生き方がいかに限界があるかを痛感したのです。しかしイエス様は「恐れることはない。今からのち、あなたは人間をとるようになる」と言われ、彼に新しい道を示されます。このようにまったく別の次元へと招かれることは、人間的に見れば恐ろしく未知なる挑戦です。けれども主の約束と命令がある場所には、必ず成就が伴うのです。

現代の私たちは、このイエス様の言葉を自分たちに与えられた召しとして受け止めなければなりません。しばしばこの場面は伝道に適用され、「何を食べて生きるのか」という日常の問題と「人を救いに導く」という霊的問題とが繋がっていることに気づかされます。実際、教会史を振り返ってみても「人間をとる漁師になりなさい」というイエス様の言葉は、伝道と宣教の中心的な御言葉として愛されてきました。そしてその御言葉に基づいて教会は成長し、多くの信徒たちが献身と従順を学んできたのです。張ダビデ牧師はこれを「深みに漕ぎ出せという御言葉は、あらゆる世代、全世界において変わらない神の召しだ」と語ります。

また、この本文で私たちが注目すべきもう一つの視点は、「漁師」というアイデンティティを脱して、「人間をとる漁師」という新しいアイデンティティを身にまとう過程が、非常に短い時間のうちに起こったという点です。一般的に人生の大きな転換期には長い時間が必要だと思われがちですが、イエス様がペテロに「深みに漕ぎ出せ」と言われたとき、彼は「お言葉どおりに」網を降ろし、一気にその奇跡を体験したのです。その体験こそが弟子の道に踏み出す決定的契機となり、ついにはすべてを捨ててイエスに従いました(ルカ5:11)。彼らがその日以来、本業である漁師の人生をまったく続けなかったという意味ではなく、今やその人生の優先順位と究極的目的が神の国と魂の救いへと置かれるようになったのです。つまり、生計や日常の問題を超えて、「網を投げる」行為そのものの意味が変わってしまったわけです。

このように、イエス様の命令は一人の人間の人生全体を再定義させます。魚を獲るための網ではなく、人間を救うために投じる網へ。日々の糧を超えて魂を生かす使命へ。「夜通し苦労したのに何も得られなかった」という状態から、「主の言葉に依り頼む驚くべき勝利」へと入っていく変化。これらのプロセスが私たちに投げかけるメッセージは本当に大きなものです。張ダビデ牧師は「漁師が魚を捕る形と、人が魂を救う形は一見似ているようでいて、実際はまったく違う次元の領域だ。それでもイエス様はこの姿をとおして誰にでもわかりやすく福音を語られる」と語ります。これこそ福音書のストーリーテリング的特徴であり、イエス様の教え方なのです。

多くの場合、神学を学んでいる人や教会の働き人たちは「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」という句を取り上げて多くの説教をしてきました。なぜなら伝道の現場こそ「深み」であり、人間の努力では到底不可能に思えるところで最終的に主の力が現されるからです。多くの人が教会と福音の本質を見失ったり、あるいは伝道の現場から離れて傍観してしまうとき、イエス様のこの言葉は再び教会を目覚めさせる叫びとなるのです。徒労に終わったような経験は私たちを疲弊させますが、「お言葉に従って」もう一度網を下ろす者は、思いがけない豊かな結果を経験することができます。

張ダビデ牧師は、この本文の解釈を踏まえて、実際の教会の働きや宣教、そして教育の領域で「深みへ」進む具体的ビジョンを提示しています。たとえばGreat Commission University(GCU)を設立して、教育の現場で知識だけを伝えるのではなく、学生たちの霊的渇きを満たし、彼らを世界宣教へ派遣するという目的を実現したいというのも、この本文の適用事例といえます。これまでの教会教育が形式や伝統にだけ囚われてきたのであれば、もう一度深い海、すなわち「あらゆる民族を弟子としなさい(マタイ28:19)」という命令を本当に実行しうる現場に変えようというビジョンなのです。

張ダビデ牧師は、教会やさまざまな宣教団体、または個人のビジネスの現場でも「深みに漕ぎ出して網を下ろし」、神の働きを体験するように勧めています。自分にとって慣れ親しんだ範囲、つまり浅瀬で網を投げ続けるのではなく、怖いほど深く広い海へ踏み出せということです。そこには未知の挑戦があり、失敗への恐れが潜んでいますが、主が共におられ、その御言葉が与えられている場所には、必ず驚くべき勝利が保証されているという信仰を持てと教えるのです。

このように、ルカ5:1-11の御言葉は、魚を捕るという出来事自体が奇跡なのではなく、漁師たちがまったく別次元の召しを受け、その道に従うことで目の当たりにした「神の世界」を体験する点に本質があります。彼らの空の網が豊かな網へと変わる転換、深みに漕ぎ出す勇気と主の言葉への完全な信頼、そしてそれらすべてを通して最終的には「人間をとる漁師」として生きる人生の大転換が明らかになるからです。弟子たちがこの召しに積極的に応答し、すべてを捨ててイエスに従った(ルカ5:11)という決断は、今日の私たちにも同様に適用されると張ダビデ牧師は語ります。その召しは、教会の中で祈りながら待機する消極的姿勢ではなく、伝道や宣教の現場へと実際に踏み出す能動的姿勢へとつながらなければならないのです。

この出来事が示す核心は、「主が私たちを召された目的は何か」という問いに要約できます。パウロはコリントの信徒への手紙第一1章26節で「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい」と語りますが、このように召された者たちは結局、神の栄光のために用いられるように選び分かたれた人生を送ることになります。そしてその具体的姿が、「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」という命令の実行に現れるのです。私たちの召しは、単に教会の中での礼拝や奉仕にとどまらず、人生のあらゆる領域で人々を救い、魂を生かす方向に集中していかなければなりません。

一方、弟子たちの恐れにも目を向ける必要があります。「恐れることはない。今からのち、あなたは人間をとるようになる」という御言葉を聞く前、ペテロには知らないもっと大きな世界への「漠然とした恐怖」がありました。漁師としての生活に満足しているか、あるいはそれなりに確立した生存手段を持っていたペテロにとって、人間をとる漁師になるというのは全く異なる生態系を経験することです。しかし、その恐れは「ときめき」と「希望」に変わるべきなのです。より広い境界へと招かれる神の声の前で、私たちもその恵みに入るために過去の安全地帯を捨てなければなりません。それは私たち一人ひとりの霊的旅路で象徴的に繰り返されることです。

「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」と求められるとき、私たちはまず過去の失敗や恐れを思い出してしまうかもしれません。ペテロの「夜通しやってみたが結果はゼロでした」という言葉と同じように、何度も挑戦してもうまくいかなかった記憶が私たちを縛ることがあります。しかし神の言葉は、私たちの欠乏や無力感を超えて働かれます。「お言葉に従って網を降ろそう」と決心するとき、私たちの人生に超自然的な実りが現れるのです。そこでペテロは「私は罪深い者です」と告白しました。もしかすると彼はそれまで、経験した海の知識や漁師としての技術、長年の仕事のノウハウを誇りに思っていたのかもしれません。しかし主が一言発せられたとき、すべての計算や予測は覆されるのです。そのとき人は自らの限界と弱さを思い知らされ、主の前にひれ伏して「罪人」であることを告白します。けれどもその告白は、罪に定められて沈むためではなく、新しい次元へと進む入り口となるのです。

そういう意味で、張ダビデ牧師はこの出来事について「私たちも主の前でさらにへりくだり、従順するときに初めて、神が開いてくださるもっと深い水域、もっと広いビジョンへと進むことができる」と教えます。この教訓は個人の信仰にとどまらず、教会共同体やさらに広く神の国を拡張するすべての働きに適用されます。宣教地や伝道の現場に出て行くとき、特に海外で文化と言語、習慣がまったく違う人々の前で福音を伝えようとするときは、空振りの網が何度も続くかもしれません。私たちの知識や戦略が全く通用しないことが多いのです。しかし主が「今度はもっと深みに行きなさい」「新しい方法を試しなさい」と言われるとき、その命令に従う人は最終的に豊かな実りを目撃することになります。

張ダビデ牧師は、この同じ論理を芸術・音楽・ビジネス・学問・社会奉仕など多様な領域へ拡張して捉えます。たとえば芸術家であれば、自分の作品を通してどのように神のメッセージを伝えられるか、音楽家であれば賛美と世俗音楽の境を超えて、さらに広い場で人々の心の奥底を揺さぶるような働きをどう展開できるかを考えるのです。商売やビジネスをする人々は、経済活動を通じてどのようにより多くの人を主へ導けるのかを模索します。そして、そのすべての動きの中心には「主の言葉」がなければなりません。人間の単なる熱意や方法論だけでは限界が明らかだからです。

ルカ5章は、予想外の仕方で現れたイエス様の言葉に従うとき、過去の経験や失敗の枠を破り、まったく別の次元の召しを発見することができるという出来事を示します。この召しは「今からのち、あなたは人間をとるようになる」という大いなる約束へと続きますが、それは弟子たちだけでなく、現代のクリスチャンである私たちすべてが握るべき御言葉です。人間をとる漁師として生きなさい、という命令は、すなわち「命を救いなさい」という要請でもあります。一人の魂でも多く救おうとすることにこそ教会の存在意義があり、クリスチャンはこの使命のために自分の賜物や時間を用いるべきです。

もし私たちが「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」という御言葉を忘れてしまうなら、それはちょうど塩が塩気を失った状態(マタイ5:13)と同じでしょう。塩が塩味を失ってしまうと外に投げ捨てられ、人に踏みつけられるしかありません。教会の使命、クリスチャンの使命がまさにこの伝道と宣教、つまり人間を救いに導くことであることを改めて自覚すべきです。たとえ教会の規模が大きくなり、財政的に安定してプログラムが充実して見えても、肝心の魂の救いという本質を見失えば、それは塩の味を失ったのと同じです。最初の弟子たちが偉大な召しの前で恐れたように、私たちもそれぞれのなりに緊張と恐れを感じるでしょう。しかしイエス様は今も「恐れることはない」とおっしゃっています。

その召しと約束を胸に刻み、私たちが新しい次元へと踏み出すとき、ようやく私たちは「空の網」の立場から解放され、霊的な豊かさを得ることができます。伝道と宣教は決して人間的な策略や技術だけでうまくいくものではありません。夜通し苦労しても魚が捕れないときがあります。ですがイエス様のひと言と共にするとき、神の国へと続く扉が大きく開かれるのです。これがガリラヤの漁師だった弟子たちに実際に起こった出来事であり、今なお私たちの霊的現実のなかで再現されうる福音の力なのです。


2. 穫の時と魂の救いのビジョン

マタイの福音書9章35-38節を見ると、イエス様はすべての町や村を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病と患いを癒されました。そして「群衆を見て深く憐れまれた。彼らは羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れていたからである(マタイ9:36)」という言葉が続きます。イエス様は人々の魂の状態を見抜き、彼らがまるで羊飼いを失った羊のようにさまよっていることを指摘されます。そして続く有名なたとえが「収穫と労働者」に関する御言葉です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい(マタイ9:37-38)」。

張ダビデ牧師は、この本文をルカ5章の「人間をとる漁師」のたとえと結びつけて、福音を伝え魂を救うという同じ使命が、2つのメタファー(漁師のたとえと収穫のたとえ)を通して強調されていると解説します。ガリラヤ湖で「魚を捕る」行為が伝道の象徴であるなら、「収穫は多いが、働き手が少ない」という農耕的な比喩は、大地から魂を刈り取るイメージを示しています。海は荒々しく深さを測り難い空間ですが、畑は広々として日光の下にさらされたものと見ることができます。互いに異なるイメージでありながら、結局はいずれも「人を救い、命を得させる働き」を意味しているのです。

「収穫は多いが働き手が少ない」というイエス様の言葉は、キリスト教の歴史が進むすべての時代においてなお有効です。現代においても依然として福音が伝えられるべき地は広大であり、教会の外には多くの魂が羊飼いのいない羊のようにさまよっています。それでも「働き手が少ない」という問題は昔とあまり変わっていません。教会は時に建物をさらに大きくし、プログラムを拡充することに力を注ぎがちですが、肝心の一人ひとりの魂を刈り取る「働き手」を育てることができていない場合が少なくないのです。伝道や宣教は「任せるもの」あるいは「誰かがやってくれるだろう」と傍観しやすい領域に追いやられやすい。しかしイエス様は「収穫の主に働き手を送ってくださるように願いなさい」と言い、積極的に働き手を育てる課題を与えておられます。

その働き手こそ、ルカ5章の「人間をとる漁師」となる人々です。イエス様はガリラヤの普通の漁師たちを召し、世界の歴史を変える「使徒」とされました。彼らは当時の知識層でもなければ、政治や宗教の権力者でもありませんでしたが、イエス様の召しに応答して従順するうちに、世界に福音を伝える中心的な働き手となったのです。イエス様が直接教えられた御国の福音と罪の赦しのメッセージを、全世界に広める仕事の中核を担いました。これは現代の教会にも同じく当てはまる原理です。今日でも神様は私たちの日常のただ中で「今からのち、あなたは人間をとるようになる」という声をかけてくださるかもしれません。「収穫は多いが働き手が少ない」という嘆きを今も私たちの心に刻ませ、教会がその働き手を養い、派遣しなければならないと強く促されているのです。

張ダビデ牧師は、この使命意識を呼び起こすために、教会・牧会者・神学界、そして一般信徒たちの心構えが新たにされねばならないと力説します。ただ「自分の信仰だけしっかりして、自分の救いだけ確かならそれで良い」といった個人主義的視点を超えて、福音が地の果てにまで伝えられなければならないという「大使命(Great Commission)」を人生の中心に据えよというのです。マタイ28章19-20節によれば、イエス様は「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という命令を残され、これはキリスト者の共同体が地上で絶対に握るべき課題です。「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」と言われたあと、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と約束されました。これは決して「一人で出かける道」ではなく、主が直接ともにいてくださる道であることを示します。

収穫のタイミングはまさに今です。私たちはときに「まだ準備が足りないから、いつか時が来れば…」と先延ばしにしてしまいます。しかしイエス様は「収穫は多い」と断言され、「働き手」さえ整えられれば、今すぐにでも刈り取りが可能なほど実った穀物がそこかしこにあるという意味です。問題は働き手が不足していることであり、これはすなわち教会と信徒への「あなたがたこそ行きなさい」という挑戦として迫ってきます。実際、福音が広がってきた歴史を振り返ると、まず先に行って命をかけた献身者がいたからこそ、新たな地域、新たな文化圏に教会が建ち、魂が救われてきたのです。

この局面で、「収穫の主に働き手を送ってくださるように願い求めなさい」という祈りが教会の中に大きく響くべきです。しかし祈りで終わってしまうのではなく、ときには祈る者自身が答えとなるべき場合も多い。張ダビデ牧師はこの部分を強調し、「祈りつつ、自分自身がその働き手になることを決心せよ」と挑戦しています。祈りは神の御心と通じ合う通路であると同時に、私たちの人生を変えるきっかけにもなります。神は旧約時代も新約時代も、いつも祈る者たちに神の御心を示し、彼らを召して具体的な行動へと移させてきました。モーセやダビデ、イザヤ、エレミヤのように、神の声を聞いた預言者たちは自らの不十分さを知りつつも、結局は主の命令に従うために立ち上がったのです。「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」というイザヤの告白がその代表的な例です(イザヤ6:8)。

ルカ5章の漁師たちも同じでした。彼らは夜通し苦労しても空の網を思い知らされましたが、イエス様の言葉にもう一度網を降ろすという過程を通して奇跡を目撃しました。その奇跡は単に魚の豊漁だけでなく、「今や自分は何をすべきなのか」という悟りへとつながります。そして彼らは即座に舟と網を残してイエスに従いました。イエス様に従うとは、彼らがこれまで営んできたすべての優先順位と価値観を変える決断でした。その結果、彼らは収穫の働き手であり、人間をとる漁師となって教会の基礎を築く大きな役割を担うことになります。

張ダビデ牧師は、この過程を今日の教会と信徒たちも同じように踏まねばならないと主張します。自分たちの空の網を痛切に自覚し、主の言葉に依り頼んでもう一度網を投げなければなりません。ここで言う空の網とは、単に伝道の失敗や教会成長の遅れだけを意味するのではありません。自分の魂が神から離れ、み言葉への渇きもないまま形式的に信仰生活を送っている状態を指すこともあります。あるいは、教会が社会に対して真の光と塩の役割を果たさず、自分たちの囲いの中だけで満足している状態を表しているかもしれません。そうしたさまざまな姿が「空の網」に象徴される霊的欠乏です。しかしそのときにも主は「深みに漕ぎ出してみなさい」と促されるのです。もう一度み言葉に従えという呼びかけです。

収穫の現場は常に新しい挑戦を要します。昔ながらの方法や昔ながらの礼拝形式、昔の伝道スタイルに固執していると、変化した世代や文化の中で福音が効果的に伝わらない場合があります。もちろん福音の本質的メッセージはどの時代でも絶対に変わりません。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、復活によって罪と死の力に勝利されたという事実は、どんな時代でも最も重要な真理です。しかし、それを伝える方法や、私たちが飛び込むべき「深い海」の風景は時代ごとに変わりうるのです。

一方、マタイ9章でイエス様が直接示された働き方、すなわちすべての町や村を巡り、「教え、福音を宣べ伝え、あらゆる病や患いを癒された」姿は、私たちに多くの示唆を与えます。イエス様は一か所に留まって人々が「自発的に来る」のを待つだけではありませんでした。ご自身が人々の生活の場へ足を踏み入れ、彼らの魂を顧み、肉体の疾患を癒されたのです。これは私たちも人々が住む現実のただ中に飛び込んでいき、様々な痛みや問題、傷を抱えている人々に直接出会うべきであることを示唆します。羊飼いのいない羊のようにさまよっている人々に近づき、心を開き、イエス様の愛と福音を伝えなければならないのです。

張ダビデ牧師はこの点を強調し、教会がこれ以上「建物中心」あるいは「プログラム中心」の発想に囚われていてはならないと主張します。もちろん礼拝堂は必要であり、様々なプログラムも一人ひとりの魂をケアし養うのに役立ちます。しかし「収穫」のたとえが示すように、収穫は畑で起こる出来事です。畑で穂が実るように、世の中のあちこちで人々が「福音」を待ち望んでおり、羊飼いのいない羊のごとく散らばっています。教会が本当にこの人々をケアし、彼らの魂を生かそうとするなら、教会がある地域社会や都市、さらに他国や異文化圏へも喜んで出向いていく必要があります。そこにおいて「恐れることはない。今からのち、あなたは人間をとるようになる」という主の言葉を再び思い起こし、福音の種を蒔き、そして刈り取らなければならないのです。

「収穫は多いが働き手が少ない」という指摘は、結局「だからあなたが行きなさい」という呼びかけとして私たち一人ひとりに迫ってきます。いつまで他人に任せ、「誰かが代わりに行くだろう」と考えているのでしょうか。各人は自分が置かれた環境の中で働き手として召されていることに気づくべきです。この召しは牧師や宣教師だけに与えられたものではなく、教会共同体に属するすべての信徒が共に担うべき大いなる使命です。ある人は職場で、ある人は芸術の現場で、またある人は教育の場で、それぞれ自分が持つ才能と機会を通して「人間をとる漁師」としての役割を果たせるはずです。

張ダビデ牧師はこれを「多様な分野に拡張された宣教パラダイム」と呼びます。かつては宣教師といえば海外に行って福音を伝える人というイメージが一般的でしたが、今や社会のあらゆる領域が宣教の場となりえます。メディア・文化・芸術・教育・IT・ビジネスなど、福音が必要とされる場所ならどこでも、そこが収穫の畑なのです。そしてイエス様が「収穫の主に働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われた以上、教会はその働き手たちが成長するようにサポートし、送り出す役割を担うべきなのです。

マタイ9章の「収穫のたとえ」は、ルカ5章に表された「人間をとる漁師」のたとえと全く同じテーマを含んでいます。第一に示されるのは、神の御心、すなわち魂を深く憐れむ心を持つようにということです。イエス様が群衆を見て深く憐れまれたのは、彼らが単に肉体的に苦労しているという以上に、魂がさまよい疲れ果てているのを見られたからです。羊飼いのいない羊は敵の攻撃に対して無防備であり、一度道を失えば帰る道もわかりません。今日、多くの人々が人生の道を失い、虚しさや迷いの中にいます。もし教会がこの現実に目を閉ざすなら、すでに福音の核心を逸しているのと同じです。

第二に、実際にその魂たちを刈り取る「収穫の働き手」が必要だということです。教会は愛と憐れみの心だけではなく、具体的に行動を起こす力も備えなければなりません。御言葉が宣べ伝えられ、伝道の現場が開かれ、魂たちが教会の中で養われ弟子訓練を受け、さらに別の収穫の働き手として育成される好循環の仕組みが整えられるべきです。こうした好循環こそ、「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」という命令に従順する共同体の姿です。網が破れそうなほど豊かな獲物をともに分かち合い、さらに多くの人を救うために祈りと献身を継続していくのです。

張ダビデ牧師は、このような収穫の働きのために、教会が単に説教と礼拝だけで構成されるのではなく、教育・訓練・社会奉仕・専門的な働きなどを通じて世の中と積極的に交流しなければならないと強調します。イエス様が当時、会堂を拠点としながらも町や村を巡り、病人を癒された宣教スタイルは、今日の教会が社会の中でどのように福音を伝えるべきかを考える際の良い手本です。人々のニーズに耳を傾け、彼らが直面する現実的な苦痛を共にし、愛をもって仕えることが第一歩となります。そして究極的には彼らの霊的渇きを解決できるように、イエス・キリストの十字架と復活を伝える段階へと移っていくのです。

「羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れていた」という表現は、決して昔の人々だけに当てはまるものではありません。現代社会でも精神的・霊的な空虚、鬱病、依存症の問題、人間関係の葛藤、物質主義の中での迷いなどが深刻です。このような状況下で、教会が真の羊飼いであるイエス様を提示するとき、多くの人々が自由と平安を得ることができるでしょう。それこそ「収穫は多いが働き手が少ない」というイエス様の御言葉に対する、最も正確な解釈であり適用です。「働き手になりなさい」との召しの前で、私たち一人ひとりはどのような姿勢を取っているでしょうか。「主よ、私には資格がありません。他の人が行くべきです」と言い訳してはいないでしょうか。それとも「はい、主よ。私がその働き手になります」と決断しているでしょうか。

このように、いま教会に求められるのは「人間をとる漁師」の情熱と「収穫の働き手」の知恵です。一人の魂が神に立ち返ることがどれほど尊いかを知るなら、私たちはこの使命を軽く扱うことはできません。実は私たちの地上での大使命(The Great Commission)は、まさにここに由来しています。張ダビデ牧師はこれを「福音宣教の究極の目的は、天における神の国が地上でも実現するようにすることだ」と言い表します。その御国が到来するためには、私たちはイエス様が命じられた通りにあらゆる民族を弟子とし、バプテスマと御言葉による教育を行い、その過程で聖霊の力が現れるように祈らなければなりません。

最終的に、ルカ5章とマタイ9章は一つの共通した結論を示しています。「人をとれ、収穫せよ」。この2つのたとえは、それぞれ異なるイメージによって人々を救う使命を描き出しながら、イエス様の御心と教会共同体の使命を同時に明かしています。パウロが「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい(1コリント1:26)」と言ったように、私たちも主の召しを思い起こすとき、その召しが最終的に「魂の救い」に向けられていることに気づかされます。そしてその召しに「アーメン」と応答するとき、教会は塩が塩味を失わず、闇の中で光を放つ真実な共同体になり得るのです。

深い海で空の網が豊かな網に変わり、羊飼いのいない羊たちが神の囲いに戻る場面は、今の私たちにも生き生きと呼びかけてきます。私たちの生活のただ中で、御言葉に依り頼んでもう一度網を降ろす勇気と、羊飼いのいない羊を収穫する決断が求められるのです。張ダビデ牧師は、この場面で最も重要なのは「恐れを乗り越える従順」だと言います。どれほど状況が厳しく私たちの力が足りないように見えても、主の命令が下れば、その従順を通してみわざが始まるのです。そしてそのみわざを味わった者たちが世界の果てまで福音を伝えていくとき、収穫の畑にはあふれんばかりの穀物が主を待ち望んでいることに気づくでしょう。

これが「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」と「収穫は多いが働き手が少ない」という御言葉を続けて読むときに得られる洞察です。一方は海、もう一方は畑ですが、いずれも主の救いのご計画に含まれている象徴です。人間をとる漁師と収穫の働き手という使命が、今日の私たち全員に与えられています。私たちがペテロのように「お言葉どおり網を降ろしてみましょう」と告白するその瞬間、空の網は破れんばかりに満ちあふれ、教会が世の避難所となり光となるべきだということを改めて思い知るはずです。また、羊飼いのいない羊たちの前で、彼らに近づいてイエス・キリストの愛を伝えるとき、群衆を深く憐れまれた主の心が私たちの心へと伝わり、真の収穫が始まるのです。そしてその一連の過程において、主は「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる(マタイ28:20)」という約束を真実に守ってくださいます。

ルカ5章の魚獲りの出来事とマタイ9章の収穫のたとえは、教会と信徒の使命が決して部分的でも消極的でもありえないことを改めて思い起こさせます。私たちはすべての民族、すべての領域、すべての人々に福音を宣べ伝え、その福音によって人をとり、魂を収穫し、神の国を拡張することを求められているのです。張ダビデ牧師をはじめ、多くの牧師や神学者、そして献身した信徒たちは、この御言葉を単なる「良いたとえ」や「教訓」として消費するのではなく、実際の生活の中で具体化しようと努力してきました。私たちも今こそ、この召しをそれぞれの場で真剣に受け止める必要があります。

恐れはあるかもしれません。夜通し苦労しても何も得られなかったという経験が私たちの肩に重くのしかかるかもしれません。周囲の状況が「今は時ではない」と言うかもしれませんし、「教会は力を失った」「世は福音を望んでいない」といった悲観論が支配的かもしれません。しかしそれでもなお、イエス様は「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」とおっしゃいます。収穫が多いのだと仰せられ、私たちにその働き手になれとおっしゃるのです。この召しの前で、私たちはペテロのように「罪深い者」であることを告白しつつも、その恵みにすがって立ち上がらなければなりません。

張ダビデ牧師は、教会が単に過去のリバイバル体験や数的成長だけに固執せず、新しい世代に対していまだに有効な福音の力を宣べ伝えるべきだと強調します。新しい文明や文化の波が押し寄せる時代だからこそ、「苦労したのに空の網」だった人々がさらに多くなるかもしれません。まさにそのとき教会が深みへと漕ぎ出し、人々の魂の深いところに「いのちの水を下さるイエス様」を伝え、羊飼いのいない羊への救いのメッセージを告げるのです。これは難しく恐れのある働きかもしれませんが、イエス様の権威と共におられるという約束があるゆえ、成し遂げられるのです。

今日、私たちが改めてこの御言葉を読み黙想することによって、魂の救いへの切実さと、すでに私たちに与えられている使命を再確認することができます。ルカ5章が示した「人間をとる漁師」の召し、マタイ9章が示した「収穫の緊急性」、そしてマタイ28章19-20節の「大使命」は別個の話ではなく、互いに緊密につながっています。教会はこの偉大なる召しを握り、働き手を育て、世の中へと出ていかねばなりません。「あなたは人間をとるようになる」という御言葉を教会と信徒一人ひとりに適用するとき、私たちは空の網を再び投げ、豊かに得る喜びを味わうことができます。そして収穫の時に、羊飼いのいない羊のような魂たちがイエス様のもとに戻ってくるとき、私たちは神の国が現実に拡大していく現場を目の当たりにするのです。すべては人間の力によって実現するのではなく、「お言葉に依り頼んで」聖なる従順を実行するときに初めて開かれる道なのです。

したがってもう一度、教会が存在する目的とは何かという根本的な問いを確認すべきです。人をとるための網さばきと穀物を刈り取る収穫は、いずれも魂の救いを指し示しています。教会がこの本質的な目標を見失うとき、私たちは簡単に世俗化の道を歩んでしまいます。礼拝は形だけのイベントになり、奉仕は自己満足に堕し、交わりは閉鎖的なサークル活動となる危険があります。しかし「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」という御言葉と「収穫は多いが働き手が少ない」という叫びをしっかりと聞くなら、私たちは立ち止まらずに前進し続けられます。ペテロのように、朝日が射すガリラヤ湖畔で主の命令を新たに受け止め、その日、二艘の舟が満杯になるほどの魚を見て驚く喜びを味わうことができるでしょう。

このすべての旅路において心に留めるべきことは、イエス様が「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる(マタイ28:20)」と約束されたという事実です。恐れや弱さの中にあっても、収穫の主であるイエス様がともにいてくださるなら、私たちは人間をとる漁師となることができ、羊飼いのいない羊たちに真の羊飼いである主の声を届けることができ、地の果てにまで福音を運ぶグレート・コミッションを全うすることができます。張ダビデ牧師をはじめ、この御言葉にとらえられた多くの人々が、今も世界のあちこちで「深みに漕ぎ出して網を降ろす」人生を歩んでいます。私たちもまた、この恐れに打ち勝って主の命令に参加する者となることを願います。

これこそが、今日の本文ルカ5章1-11、およびマタイ9章35-38の御言葉が現代を生きる私たちに訴えるメッセージです。一方には漁師のたとえ、もう一方には収穫のたとえを通し、私たちは教会と信徒がなぜ「人を救う」ことに力を注ぐべきなのかを悟ります。その目的を見失わないとき、教会は塩味を失わず、この暗い世で光を放つ存在になれます。そしてそうした忠実で賢いしもべたちが「ときに応じて食糧を配る(マタイ24:45)」とき、この世は「羊飼いのいない羊」ではなく、真の羊飼いであるイエス様に立ち返り、収穫の喜びを味わうことでしょう。「深みに漕ぎ出して網を降ろせ」という御言葉が私たちの心を揺さぶり、「収穫は多いが働き手が少ない」という主の声が私たちを覚醒させる今この瞬間が、私たち一人ひとりと教会共同体にとっての新たな出発点となることを切に願うものです。

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張ダビデ牧師 – 復活信仰の回復 


1.エルサレムのマルコの屋上の間、復活信仰の現場

エルサレムにあるマルコの屋上の間は、キリスト教教会史において特別な意味をもつ空間であり、同時に現代の教会共同体に深い霊的な洞察を与える場所として広く知られています。この屋上の間は、使徒の働き1章から2章へと続く非常に重要な場面の舞台となった場所で、初代教会の誕生と聖霊降臨の出来事が起こったと伝えられています。また、その始まりである使徒の働き1章には、復活されたイエス様が地上での働きを終えられる時点、すなわち昇天直前に弟子たちに最後の託しと約束をくださった場面が記されています。さらに、この屋上の間は単なる物理的空間にとどまらず、「初代教会が恐れの中でもエルサレムの真っただ中に集まり、歴史的変化を起こした象徴的な場所」という点で重要な意味をもっています。

張ダビデ牧師は、この場面について「たとえ弟子たちが恐怖と不安に震えていたとしても、イエス様は復活された後約40日の間、彼らを直接訪ねて立て直し、信仰を吹き込み、それからエルサレムへ集まるように導かれた」と説明します。弟子たちはガリラヤにまで散り散りになりましたが、復活されたイエス様に出会って初めて「復活信仰」によって武装され、エルサレムに戻って来ることができました。これは信仰共同体の中で復活がいかに力を発揮するかを如実に示す事例であり、その出発点がマルコの屋上の間であったわけです。

では、なぜあえてエルサレムでなければならなかったのでしょうか。イエス様が捕らえられ、そこで処刑された都市がエルサレムです。弟子たちにとっては非常に恐ろしく悲惨な記憶が残る場所だったに違いありません。主が十字架につけられた後、多くの従者たちは四散してしまいました。しかし主は「エルサレムを離れないで、父が約束された聖霊を待ちなさい」(使徒1:4-5)というみことばを直接与えることで、弟子たちがむしろ最も危険で恐ろしい地域へ再び集まるように導かれました。張ダビデ牧師は、このことを「神のなさる御業は常に私たちの期待や常識を超越する。復活信仰とは、最も絶望的な場所で最も希望をもたらす力を発揮するときに明らかになるものだ」と解釈します。

復活信仰の特徴は、「死が終わりではない」という確信にあります。弟子たちは一時、「主が処刑され、自分たちも捕らえられて死ぬかもしれない」という恐れの中でうずくまっていましたが、イエス様が実際に死の力を打ち破ってよみがえられた姿を見て、「死を超えた新しい時代」を体験したのです。だからこそ、使徒の働き1章3節は、イエス様が復活された後40日の間「神の国のことを語られた」と証言します。ここでいう「神の国のこと」とは、単に漠然とした終末論や哲学ではなく、現実の中で教会がどのような力によって建て上げられ、いかに前進すべきかという具体的な方向性を含むものです。その中心の一つが「あなたがたはエルサレムから始めなさい」というみことばなのです。

張ダビデ牧師は、「人が最も弱くなり、挫折した場所で再び回復するという歴史こそが『復活信仰の実際』と呼べる」と語り、これこそマルコの屋上の間が与えてくれる教訓だと強調します。最初に弟子たちがこの屋上の間に集まったとき、その雰囲気はきわめて息をひそめた状態だったことでしょう。十字架の出来事直後、イエス様の遺体は墓に葬られ、指導層はイエス様の残党を根こそぎ一掃しようと躍起になっていました。そうした状況ゆえに、この屋上の間は「しばらくの間集まり、祈るための安全な隠れ場所」として利用されていたかもしれません。しかし主は、「そこで立ち止まるのではなく待ちなさい。それはただ留まれという意味ではなく、聖霊を受けるまでとどまることを言っているのだ」とおっしゃいました。こうしてマルコの屋上の間は「無力な避難所」から「力の源泉」へと変わっていきますが、その理由はまさに聖霊の降臨によるものです。

やがて聖霊が下ると(使徒2章)、もはや彼らは恐れに隠れる弟子たちではありませんでした。恐怖の空間だった屋上の間が、復活の確信と聖霊の力が下る現場となると、弟子たちはそこを出てエルサレムの街へ繰り出し、大胆に福音を宣べ伝え始めました。これについて張ダビデ牧師は、「復活が単なる教理としてとどまっているだけでは意味がないが、復活信仰が実際の生活を覆す力となるとき、人々はついにエルサレムの城内ですら恐れを乗り越え行動する変化を見ることになる」と力説します。

こうした「行動する信仰」は、そのまま使徒の働き全体に表れます。エルサレムから始まり、サマリアとユダヤ全土、さらに地の果てに及ぶ歴史的な福音伝播の旅路が広がっていくのです。信仰が行動へとつながった最初の場面は、使徒の働き2章のペンテコステ(五旬節)の出来事に明らかです。奥まった部屋に隠れていた者たちが街へ出て福音を宣べ伝え、一日に数千人が悔い改めてバプテスマを受けるという壮観が繰り広げられました。その火点がまさにマルコの屋上の間でした。

一方、この屋上の間は「教会の母体」や「教会の子宮」にたとえられることもあります。その理由は、新しい時代がまるで新しい生命の誕生のように、復活されたイエス様への確信と聖霊降臨によって実際に「新しい共同体」がその中で胎動したからです。イエス様がまだ地上におられた時期は、弟子たちはみことばを学びながら共に歩む“修学”の段階と見ることができます。しかしイエス様が昇天され、聖霊が下った後、弟子たちは「教会共同体の柱」として自ら福音を広げていく主体へと変わりました。屋上の間はその転換の中心部であり、その原動力こそが「復活信仰」だったのです。

ヨハネの福音書21章に描かれるペテロの回復の場面を思い起こすと、弟子たちがどのように復活されたイエス様と出会い、再び使命を確認してエルサレムへ戻り従順したのかを理解できます。ペテロが主を三度否認した後、主は「あなたは私を愛するか」と三度問い、ペテロがその愛を告白することで、打ちのめされた自分自身を抱きしめ、「岩(ペテロ)」として新しく生まれ変わります。張ダビデ牧師はこの場面について「教会は特定のプログラムや組織力で動くのではなく、根本的な原動力は『主への愛』にある。その愛は主の復活から来るものであり、私たちを受け入れてくださったその恵みを心から信じ、口で告白するときにようやく揺るぎないものになる」と解説します。

マルコの屋上の間もまた、このような「告白」と「悔い改め」と「信仰」の集積所でした。主を否認した弟子たち、四散してしまった弟子たちが再び戻り、一つの共同体となり、絶望を越える勇気をもって集まれたのは、主の復活と聖霊の約束があったからです。「マタイの福音書26章以降に記されたイエス様の受難の現場と、ヨハネの福音書21章でガリラヤに戻った弟子たちの姿、そして使徒の働き1章のエルサレムへの帰還が一本の線でつながるとき、初めて復活信仰は今日の教会に実質的なメッセージを与える」と張ダビデ牧師は繰り返し強調します。

かくしてエルサレムのマルコの屋上の間は結果として、「恐れから大胆さへ、散り散りから集まりへ、恥と否認から悔い改めと告白へ」と転換する現場となりました。現代の教会がこの点を深く黙想する必要があります。つまり「教会がある時点から社会的非難や迫害の恐れの中に閉じこもってばかりいるなら、再びマルコの屋上の間に下った聖霊の炎が必要だ」というメッセージを得ることができるわけです。これは復活信仰の現在的応用でもあります。死を打ち破り復活されたイエス様が、まるで今も私たちと共におられるように教会を建て上げ、その教会が世のただ中で大胆に福音を伝えられるよう後押ししてくださるという事実を握るとき、私たちは「エルサレムから始まって地の果てに至る」道を喜びのうちに歩むことができます。

これらすべての文脈の中で、張ダビデ牧師は「マルコの屋上の間を単なる歴史的場所として見るだけでなく、現在の教会ごとにそれぞれの屋上の間を回復する必要がある」と強調します。それは「聖霊の臨在を慕い求め、祈る場所」であるかもしれませんし、「復活信仰を共に握りしめ、告白する場所」であるかもしれません。屋上の間に集まって祈るということは、内向きに隠れる行為ではなく、「そこで力を受けて世へ出ていくための最終準備」という点が核心です。イエス様が弟子たちに「まもなくあなたがたは聖霊によるバプテスマを受ける」(使徒1:5)と言われたように、その約束が「屋上の間」で成就したからこそ、初代教会は決して消えることなく全世界に広がっていったのです。


2.マッティアの選任、ユダの空席を埋める教会の回復

使徒の働き1章の後半では、弟子たちが十二番目の使徒の座を新たに埋めるという出来事に直面します。復活祭を過ぎ、ペンテコステに向かうあいだの最大の課題の一つは、「イエス様が十二人のひとりとして召されたイスカリオテのユダが裏切り、その後処理をどうするのか」でした。ユダはイエス様を銀貨三十枚で売り渡したのち、自ら首をつって死にました。それだけでなく、不正な代価で畑を買い、その場所で体が落ちて内臓が裂けたという記録(使徒1:18)のため、「血の代価の悲劇」を象徴する人物となってしまいました。

張ダビデ牧師は、ユダの悲劇を「最も身近にいた人物が、かえって最も大きな犯罪を犯した事件」と表現します。ユダは弟子共同体の中で会計係をしていた人物でしたから、実質的に財政を管理し、奉仕する重要な地位にありました。教会でも同様に、財政を任され奉仕する立場は恵みに満ちるべき重要な場所であると同時に、サタンの誘惑と試みにさらされやすい通路でもあるというのです。なぜなら共同体を運営するにはお金が必要であり、ときにこのお金が世俗的な利益や欲望に触れてしまうからです。したがって聖書は教会に「金銭を愛することがあらゆる悪の根源である」(テモテ第一6:10)と繰り返し警告し、また初代教会が「すべての財産を互いに共有し、人々の必要に応じて分け与えた」(使徒2:45、4:34)と記すことで、物質に囚われて腐敗しないよう焦点をはっきりさせているわけです。

しかしユダは、物質的な欲望や政治的思惑のすき間からサタンに利用され、ついにイエス様を売り渡す裏切り者となってしまいました。彼は裏切り直後に遅すぎる後悔をしましたが、正しい悔い改めには至らず、極端な選択をして命を絶ち、結果として「弟子の一人を失った」という痛ましい傷を教会に残したのです。十二弟子はイスラエルの十二部族を象徴する霊的支柱であり、主が直接建てられた「新しい契約共同体の門」のようなものでした。その片方の門が壊れたわけですから、この門を再び建て直す作業は急務だったことでしょう。

そこで使徒の働き1章では、この欠員を埋めるための会合が開かれます。ここで初代教会は、新たに使徒の座を満たす人物としてマッティアを選びます。その過程を注意深く見ると、教会の危機対応のあり方を学ぶことができます。使徒の働き1章21~22節で、ペテロはこう提案します。「主イエスが復活される証人となるために、私たちといつも行動を共にし、ヨハネのバプテスマから主が昇天される日までずっと一緒にいた者の中から一人を選び出そう」。その結果、二人が候補に挙がり、初代教会はその場でくじを引いてマッティアを選任しました。

張ダビデ牧師は、ここで注目すべきいくつかのポイントを挙げています。第一に、初代教会が「復活の証人」であることを最優先の資格要件とした点です。教会が存在する目的は、復活された主を証しすることにあるので、使徒の核心的使命もまた復活の知らせを伝えることでした。マッティアをはじめ候補となった人々は、イエス様の公生涯と苦難、死、復活までの一連の流れをそばで見守っていた者たちで、事実上、十二使徒と共にずっと行動し学んでいた人たちだったのです。第二に、選考の過程における共同体的合意と祈り、そしてくじ引きが印象的です。「すべての人の意見と教会の合意が重んじられ、最終段階で神の主権的決定に運命を委ねる方式」が取られたということです。これは教会が単なる人間的な計算や政治的妥協によってリーダーを選ばないことを示唆します。第三に、こうして選ばれたマッティアが、その後どのような力を発揮したかについては聖書に長々と記録は残っていないものの、この出来事をきっかけに十二使徒が完全に回復し、再びペンテコステの聖霊降臨を迎える準備が整ったという事実が重要だという点です。

では、なぜこの選任の過程が重要なのでしょうか。聖霊が下る直前に教会が最初に行ったことが、「指導者チーム(使徒団)の回復」だったからです。ユダがもたらした欠員と裏切りによる傷を癒さずにいては、教会が完全に一つになることは難しかったでしょう。人々の心の奥には依然として「私たちの仲間が主を裏切った」という裏切られた思いが残っていましたし、その中で弟子たちは互いへの信頼を回復することが急務でした。また、それぞれに散らばっていた弟子たちが再びエルサレムに集まり共に祈る中で、「もはやあのような裏切りが起きてはならない」という強い結束を固める必要があったのです。

張ダビデ牧師は、「教会の中に生じた傷、指導者の裏切りがどれほど共同体を崩壊させ得るかを、ユダの事件が象徴的に示している」と指摘します。それゆえ初代教会は、イスカリオテのユダの事件を単に忘れたり覆い隠したりするのではなく、教会が最初の歩みを踏み出す時点で透明に整理し、乗り越えていったのです。ユダが残した血の代価の金銭は神殿に投げ捨てられ、それで「血の畑」が買われたこと(マタイ27:5-8)は公然と明るみに出されました。教会はこの恥ずかしい歴史を隠すことなく、むしろ預言(エレミヤや詩篇)に基づいて「このことが預言の成就過程の一部」とまで受け止め、共同体全体で声を合わせて祈り、新しい人物を任命したのです。

こうしてマッティアが使徒の座を継承しました。教会は再び十二使徒という枠組みを回復し、その中でより強固な霊的結束をもってペンテコステの聖霊降臨を迎えました。そしてその聖霊の力を受けた使徒たちは、エルサレムを起点としてユダやサマリアを越え、地の果てまで福音を広げていきます。もしユダの裏切りと死による内紛や傷が放置されていたら、教会は出帆する前から崩壊する危険が大きかったでしょう。しかし逆に、その傷をさらけ出し解決し、回復のプロセスを公に宣言したことで、教会はより成熟した姿に生まれ変わることができたのです。

別の視点から見れば、ユダの失敗と死は初代教会に「いかなる者もこの道で油断してはならない」という警醒を与えたとも言えます。3年もの間イエス様に直接従い、奇跡やみことばに接し、会計係を任されるほど信頼を得ていた人物ですら堕ちることがあるという事実は、教会の構成員なら誰しも誘惑に陥る危険があることを思い起こさせます。張ダビデ牧師はこの点について、「現代の教会のリーダーシップも同様だ。どんなに優れた人に見えても、絶えずみことばと聖霊によって自分を点検し、目を覚まして祈らなければならない。そうしなければ、サタンはいくらでも私たちを餌食にしてしまう可能性がある」と警告します。教会史には、裏切りと堕落の歴史が決して少なくありませんでした。しかし同時に、神はその度ごとに(マッティアのように)新たな人物を建てて教会の空席を埋め、歴史を続けてこられたことも事実なのです。

では、現代の教会がマッティア選任の出来事から学べる点は具体的に何なのでしょうか。第一に、教会は共同体的合意と祈りの中で最も重要な指導者の座を補っていくべきだということです。単に能力・名声・政治力だけを見て指導者を立てるのではなく、「復活信仰を確かにつかんでいるか」「主と共に歩んできた時間があるか」「主の苦難・死・復活をそばで目撃し、自分の人生をもって証しできるか」といった核心的信仰告白のほうがはるかに重要なのです。第二に、指導者の裏切りや教会内の大きな傷が生じたとき、それを単に「個人の悲劇」として隠すのではなく、共同体全体が痛みを共有しながら「どう回復するのか」を祈りとみことばの中で探る必要があるということです。ユダが倒れた後、初代教会が彼を激しく糾弾することに時間を費やすのではなく、主のみことばと預言を探り研究し、それに即したかたちで「新しい道」を開いた姿勢には学ぶべき点が多いのです。第三に、こうした回復のプロセスは最終的に「聖霊降臨」に焦点を当てていたということです。教会がなぜわざわざ聖霊降臨前にこの事件を取り扱ったのか。それはペンテコステの聖霊を受けるにふさわしい完全な状態に自分たちを整える必要があったからです。不義や混乱が整理されていないままで、聖霊の偉大なみわざを期待するのは難しいでしょう。張ダビデ牧師は「教会が聖霊のわざやリバイバル、成長などを口にする前に、まず内部の罪や不義を真剣に扱い、指導者の堕落があればそれを隠蔽せず真摯に癒しの道を探らなければならない」と強調します。

ユダから離れ、マッティアが建てられたことが「一つの象徴」だとすれば、それはすなわち「教会はいかに大きな傷を負っても、神のご計画の中で必ず回復の道を見いだす」というメッセージです。もちろん、ユダはもともと「見捨てられた者」だったのではなく、自らの選択によってその道を進み、取り返しのつかない悲劇に陥ったのです。教会は誰であっても回復と救いの道に招きますが、個人がそれを最後まで拒むなら悲劇は起こり得ます。教会はこうした悲劇をむやみに覆い隠すのではなく、悔い改めと刷新の力を探し、新しい道を切り開いていかねばなりません。そのプロセスで「復活信仰」が核心的エネルギーとして働くのです。

復活信仰とは「死を終わりにせず、再び生かされる神の力」を信じることです。ユダはイエス様を死に追いやった張本人でしたが、その後の罪悪感に押しつぶされていきました。しかしイエス様は復活によって「いのちの道」を開かれました。イスカリオテのユダの裏切りが教会にもたらした衝撃と恐怖は、イエス様の復活がもたらす希望によって乗り越えられたのです。マッティアがその空席を埋めたとき、十二使徒は再び一つになって聖霊を待ち、やがて教会に火のように下った聖霊によってエルサレムで大胆に福音を宣べ伝え始めました。使徒の働き1章から4章を読めば、ペテロとヨハネが神殿の守衛隊や宗教権力の前でも恐れを感じず、「イエスの名のほかに救いはない」(使徒4:12)と宣言する場面が出てきますが、この時のペテロはもはや「鶏が鳴く前にイエスを三度否認したペテロ」ではありません。彼はマルコの屋上の間で回復された者、聖霊を受けた者、そしてマッティアと共に「完全な使徒団」を形成するリーダーとして堂々と福音を叫ぶのです。そこには「崩れ去った指導者の一人の座すらも神が回復された」という力強いメッセージが込められています。

張ダビデ牧師は、「ユダを失いマッティアを得た教会が『血まみれの傷』を癒されたように、教会も絶えず過去の傷や苦しみを癒され、新しいぶどう酒のための新しい革袋を満たしていく必要がある」と語ります。これは初代教会だけの物語ではなく、現代の教会もさまざまな紛争・腐敗・裏切りといった出来事を経験するときがあり、そのたびにどう「新しいマッティア」を立てて共同体を整え、聖霊の働きを受けるかを考えねばならないというのです。

教会は「聖霊によって新しい時代を切り拓く共同体」であると同時に、「裏切りと悔い改め、死と復活、挫折と回復」という数々の交差点を通過しながら成長していきます。イスカリオテのユダはイエス様の死を早め、マッティアはその空席を埋めて福音の門を拡大しました。ペテロは否認して逃げましたが、イエス様は再び彼を探し求めてヨハネの福音書21章でその愛を回復させ、使徒の働きではまっさきに説教を展開するリーダーに立てられました。このように使徒たちが再編成を終えた後、初代教会はマルコの屋上の間という空間で聖霊が下る壮観を体験します。そして聖霊が下った瞬間から、教会はもはや隠れることなく街へ出て福音を宣べ伝え始め、たちまちエルサレムが大きく揺り動かされたのです。

現代でも教会が同じ体験をすることはあり得るのでしょうか。張ダビデ牧師は「もちろん可能だ。ただし、その条件は、今日の教会が復活信仰の実際的な力を信じ、内部の問題(裏切り・腐敗・不信)を悔い改めと祈りによって解決し、聖霊の導きを完全に求めるかどうかにかかっている」と主張します。マルコの屋上の間とマッティアの選任は、教会がどのように復活された主の力を日常生活の中で体験し、いかなる方法で共同体内の葛藤と傷を克服し、新しい時代へ踏み出すのかを示す代表的な事例です。

復活信仰によって象徴されるキリスト教の核心は、「この地上の死、絶望、失敗が決して最後ではない」という信念です。イスカリオテのユダという絶望的な事例があっても、教会はマッティアを通じて福音宣教の長い歴史を継承していきます。私たちが時にペテロのように主を否認し、罪悪感の中に生きていても、ヨハネの福音書21章のように主が親しく私たちを再び訪ね、回復させてくださいます。その恵みが私たちをエルサレムのマルコの屋上の間へと導き、無気力ではなく大胆な聖霊の力をまとって世のただ中へ踏み出すようにしてくださるのです。

こうしたプロセスを経て、初代教会はついに使徒の働き28章最後の節で「だれにも妨げられることがなかった」という堂々たる宣言をもって締めくくられます。福音宣教を妨げることはできなかった、という意味です。パウロはローマの獄中にあってさえ福音を宣べ伝え、ペテロは歴史的記録によると逆さ十字架にかけられる殉教によって使命を終えましたが、彼の後を継ぐ多くの弟子たちが再び教会の欠員を埋めていきました。このように教会は周期的に揺れ動き、倒れることがあっても、復活信仰と聖霊の力の中で新たに立ち上がるのです。十二弟子のうち一人が倒れても、神はその使徒職を回復し、地の果てまで続く道を用意しておられます。

マッティアの選任は、まさにこの「回復」と「前進」の二つの精神を同時に内包しています。教会が内部の傷を癒し、復活信仰に基づいてより大きなビジョンへ向かう出発点となるからです。このメッセージは現代においても依然として有効であり、教会の指導者たちが奉仕の現場で様々な葛藤や問題に直面するたび、「初代教会はどのようにこの難局を突破したのか」を振り返るなら、結局その答えは「復活信仰の確固たる告白と聖霊降臨を待ち望む祈り、そして透明な共同体的手続き」にあることに気づくでしょう。

張ダビデ牧師はこれをまとめながら述べています。「復活とは力である。その力が私たちの心の内に働くとき、人を生かし、教会を生かし、キリストのからだを建て上げる。どんなに大きな裏切り者がいても、その裏切りを乗り越えて教会は次の段階へ進む回復と新たなスタートの道を見いだすことができる。ユダの失敗が教会史の終焉を意味しなかったように、現代の私たちが直面するいかなる大きな傷も神の国の約束を消し去ることはできないのだ。」

ここに「エルサレムのマルコの屋上の間とマッティアの選任」が一つに結びつく決定的な理由があります。マルコの屋上の間は、息をひそめて隠れていた弟子たちが聖霊降臨を経験し、世に向かって福音を宣べ伝え始めた火点だとすれば、マッティアの選任は、十二使徒のうちの一人の裏切りと死を乗り越えて教会が再び「完全な共同体」として生まれ変わる場面です。この二つのストーリーは、「教会の中の裏切り・否認・恐れが、主の復活と聖霊の臨在によってどのように回復と力の歴史へと変わっていくのか」を総合的に示しています。そこには悲しみや悔恨が入り混じりますが、それ以上に強力な神の恵みが注がれています。その結果、初代教会はエルサレムを越えて地の果てまで福音を宣べ伝える道へと勇躍していくことができたのです。

今日の教会も同様です。ある地域の教会や共同体が、まるでマルコの屋上の間のように「現代的意味での屋上の間」を回復し、復活信仰に満たされるなら、そしてイスカリオテのユダが残していった傷を、マッティアのような選任によって透明でみことばに忠実な方法で癒すなら、聖霊の新しい働きを期待できるでしょう。ペンテコステの出来事は2000年前のある場所で一度だけ起こった「歴史的な単発の出来事」ではなく、あらゆる時代と地域の教会が体験し得る神の運動なのです。

このような教えは、張ダビデ牧師が一貫して強調してきた「復活信仰の実践性」と深く結びついています。もし聖書に記されたイエス様の復活を知的に受け取るだけで終わるなら、それは単なる教理にとどまります。しかし初代教会は、この復活を実生活の原動力とし、裏切りや苦難、死や絶望ももはや終わりではないことを実地に示してみせました。ペテロや使徒たちがエルサレムの真っただ中で自分たちを殺そうとした勢力にも大胆に福音を宣べ伝える様子は、復活がいかにリアルで爆発的な力をもたらすのかを端的に物語っています。

したがって「教会とは何か」という問いに対して、「エルサレムのマルコの屋上の間から始まり、イスカリオテのユダの裏切りをマッティアの選任によって回復し、聖霊降臨によって全世界へ広がった共同体」と答えることができるでしょう。そのアイデンティティは歴史の時空を超えて今も有効であり、教会が復活信仰を守る限り決して閉ざされません。ときには教会内部で致命的な亀裂が起きたとしても、神は新しい人物を建ててその席を回復し、再び聖霊を注がれるのです。これこそが「エルサレムから始まりローマに至り、さらに全世界に及ぶ」福音の連続性であり、現代の教会が継承すべき信仰の遺産です。

張ダビデ牧師の結論的勧めも、この点に集約されます。「私たちは現代の屋上の間を回復しなければならず、裏切りや失敗が起こったとき、それを覆い隠すのではなく真実に悔い改め、透明に解決することで、神が与えてくださる新たなスタートの機会をつかむべきです。その中心には『復活の主』がおられ、その主が教会を通して成し遂げようとされる宣教の使命が置かれているのです。」教会がこの道に従順するとき、使徒の働きの歴史は中断されることなく、今もなお展開していくに違いありません。

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